誰かが作った基準で生きることは大変だ

私たちは常に選択をしてきました。

 

小学校にいき、中学校に行き、高校に行き、大学に行き、良い会社に就職するこれが日本という国では正解の生き方だ。というふうに、親や教師に教え込まれる。これが正しいと信じ込まされる。私もこれが正しいと高校の時に感じた。小学校、中学校では将来の夢が決まっていた。しかし、高校で身体能力の差に絶望を感じた。その時にこの国での正解の生き方が正しいのだと感じるようになってしまった。至って平凡だと感じたのだ、平凡であってよかったとも思った。

 

大学はそこそこの大学で、そこでも自分は平凡、一般的だと感じた。しかし、平凡や一般的なことはありがたいことなのかもしれないとも思えることが増えた。平凡であることはあまり努力を必要としない。ほんのちょっと周りと一緒ぐらい努力したら良いだけなのだ。単位も1日前に勉強すれば取れるものばかりだ。これが普通だ。そして何もせずに就職を迎え、周りの人たちと一緒に就職を果たす。これが日本での生き方の正解である。これは考えることを放棄しているのとなんら変わりない。

 

私は普通でいることがとても辛いことだと思っている。普通になるのだったら落ちこぼれになった方がましだ。だから、私は高校、大学の一回生では落ちこぼれの部類にいた。落ちこぼれになるのはとても簡単だった。落ちこぼれることは誰にでもできるがみんな落ちこぼれないようにそれなりに努力をする。それが落ちこぼれにならない方法である。落ちこぼれる方法は何にも努力せずに、遊んで暮らしていればすぐに落ちこぼれになる。高校では授業中ずっと寝て部活だけ行く、大学では働きもせず親の金で毎晩夜の街を遊び歩き回ることで落ちこぼれていく感覚をぞくぞくと感じることができとても刺激的だった。しかし、落ちこぼれ始めて3年たった大学一回生の春休みの時ある事件が起き親を泣かせてしまったことがありそれが原因で落ちこぼれをやめようとした。しかし、3年も続けてきたことをやめることは至難の技であることに気づいた。癖は残るものですぐにサボってしまった。だから、1日1日を階段のように意識づけた。そうすると結構サボり癖が直ってきた気がした。それで平凡になった、しかし平凡になった時はよかったが二、三ヶ月平凡な生活を続けていると平凡でいることに嫌気が差してきた。そしたら、成功している人に妬みを感じるよになっていたのだ。私は平凡ではなく、天才と呼ばれるような人になりたいと思い始めるようになった。そこで、何か行動を起こそう、目標を立てようと思った。そして、行動をし、目標を立てた。ここでも階段を人生を階段のようにイメージした。そうすることで、逆算でき、毎日の一瞬一瞬を選択して生きている。この今生きている一瞬の価値を大事にしたいと考えるようになった。